幻燈

書きたいときに書きます。

晩春

久しぶりに酔った勢いで書いてみる。
思えばブログを書き始めた頃はいつも酒が残った状態で書いてた気がする。
酔いに任せて駄文連ねるの気持ち良いんだよね。


手に余るなと思っていたこの街にも気づけば思い出がまとわりつくようになり、気づけば少し愛せるようにもなっている。
毎日毎日色んな思いを抱えながら歩いた通勤路。
目まぐるしく過ぎていった8ヶ月間。


良くも悪くももう二度と味わえないだろうなというような感情に冒されまくった日々だった。


街を歩けばその様々な感情がリアルに思い起こされる。


手に余る都会。
常に新しいものが供給され、古いものが淘汰されていく。
数日前まではどこもかしこも独占していた情報が、気づけば「もっと新しい何か」に塗り替えられていく。
「新しい」は新鮮で、
それから刺激的で、
だから皆、この前まで街を埋めつくしていたものが何だったのか思い出そうともしない。


この街では、新しいこと、つまり時間の流れに乗り遅れないことが何よりも大切で、
だから「もっと新しいもの」で塗りつぶされた何かのことをいつまでもいつまでも考えてしまうような人間には、あまりにも刺激が強い。
刺激が強くて、
だから嫌でも生きたくなってしまう。


朝出勤したらまず新刊。
新刊は基本的に面陳するので、今面陳されている何かと入れ替えざるを得ない。
1番売れていないものを引いて、新しいものと入れ替える。
何となく、売れていなさそうなものをピックアップして最終売上や累計売上、発売日を確認して返品するものを決める。
でもこの「何となく」が難しくて。
これは売れるからなあと思って情報の確認すらしなかったものが、いつの間にか全く売れなくなっている。最終売上もう3ヶ月前?あの頃は飛ぶように売れていたのに。
いつの間にか時代は移ろっていて、かつて「それ」がいた場所には新しい何かが隙あらば、いや隙がなくとも無理やり入り込んでくる。押し出してくる。


仕方がない。
いつだって席の数は変わらない、
人が興味を持てるものの数は限られている。
古いものは淘汰されて新しいものが持て囃される。
私だって新しいものの刺激には、いつだって敵わない。


それでも私は、その淘汰されていったものたちのことを考えずにはいられない。消費され尽くして人々の記憶から消されてしまったものたちのこと。


消費されてしまうくらいなら細々と生きてる方が良かった?


***


お酒飲んで音楽聴きながら好きな本を朗読、
アイロンのある風景が読めなかった夜、
代わりに目に付いた斜陽、
あとは沈むだけの太陽。
恋と革命のために私は生まれてない。


生まれる意味なんて、生きる意味なんてそもそもないと思っていて、そんなのは見出したい人だけが見出したら良い。
見出したい人にとってそれはすごく意味があるものだけど、そうじゃない人にとってはそれは呪縛以外の何物でもない。
誰もが、何らかの宗教の中で生きている。
信じたいものの存在やその意味を信じて生きている。
何も信じないって言い張ったって、
それだって何も信じないことを信じてるだけでしょ?


なんだかんだ信じることをやめられないのが人で、
だから人は生きている。生きてしまう。
信じてるから生きていて、信じているから死にたくなる。信じている以上、その人にはきっと諦めきれない何かがあって、その欲が人を生かし、そして殺す。


私はきっと27歳で死なない。
ロックンロールが、文学が、私を救ってくれるからじゃなくて才能がないから当たり前に死なせて貰えない。
能動的に死に向かわない限りはきっと生きてしまう。
生きるなんてすごく簡単、
この身体には生きる機能ばっかりが完璧に備わっていて、この身体は私の意思なんてお構いなしに毎日生きることに一生懸命。
特に弱い人間を生かすのはすごく簡単、生きるに反する行動を起こせば身体が全身で(全身で?)危険信号を発する。
苦しくなる。弱い人間は苦しみに耐えきれなくて、だからいとも容易く生存させられてしまう。


私の身体のくせに私の気持ちを全く考えてくれないこんな身体が嫌でもあるし、無理やりにでも生かしてくれていることに感謝もしている。
死にたくて死にたくて堪らない瞬間より、生きていてよかったと思う瞬間の方が遥かに多いし、そのときの幸福感は過去の不幸すら輝かしい軌跡だったんじゃないかと錯覚させてくれる。


***


私は自分の人生が、自分が、不幸だなんて思ったことはない。どちらかといえば恵まれている方で、少なくとも私に嫌なことをしてくる人間は身近にいない。生きている以上、傷ついたことはあるけれど傷つけられたことはないと思う。分かりやすい悪意に痛めつけられたことはないし(まあ悪意には無敵だけど)、裏切られた経験も数える程しかない。
周りの人間には恵まれてきた人生だと思う。
皆大切だし、皆幸せになって欲しいと心の底から思う。
もし不幸になりそうな人がいるなら何とかして幸せにしてあげたいとすら思う。


心からそう思うけど、
私は結構わがままらしい。
「自分のプラスのために他人にマイナスを発生させる人間が許せない」とことある事に思っていた数年前。
これを自分の戒めにもしていた。自分の快や楽のために他人にマイナスを発生されるのは大罪だと思っていた。
(自分のマイナスを軽減するために他人にマイナスを与えてしまうのは仕方ないと思うし、他人のマイナスを軽減させるためなら私もマイナスを背負える)
だから他人をプラスにするために自分がマイナスを被ることも出来ない。


それにあの頃よりももっとワガママで貪欲で必死に生きている今、欲しいものはちゃんと欲しいって言いたい。
天秤にかけた結果納得して諦められるものは良い。
でもそうじゃないものは、自分の人生にとって必要だと思うものは全力で守り抜きたいと思う。守り方はそれぞれだけれど。


私の人生で大切なものは何かな。
ジョージ・ソーンダーズだったらこのブログがまさにと言ってくれるかな。



酔いに任せて脳死で書いたのにポンポン言葉が出てきてびっくり。何が書きたかったとかでもない、今書いたことは本心だけどこれを今とにかく強く強く訴えたかったわけでは無い。不意に思考が零れたという方が近い。


私は多分、
まだ、全然、生きたい。


晩春に寄せて

25歳の更級の少女より

はなむけ

書き始めが1番悩むなあということでいつも書きたくないことをたらたら書いてしまうのでいきなり本文入ります。


あの頃を振り返ってみる。
大学生で、19歳で同棲しててもう何年も付き合ってる彼氏がいる自分のことを少し大人だと思ってた。
目先の色恋じゃなくて、長期的に愛を育める(と思っていた)自分が嫌いじゃなかった。
ノーリスクで平穏な道を望める自分は将来無茶することもないだろうし、天変地異でも起きない限りは平凡でも穏やかな人生を歩めるだろうと。


ヤンチャして自分で自分の人生めちゃくちゃにしてる人見るとアホだなあなんでそんなこと出来る?って思わずにいられなかった。
でもそれと同時にリスク承知で何かに飛び込んでいけるほど欲望に突き動かされてる姿は何だかキラキラしていて、魅力的に感じていたことも確かだった。


ここ数年、私は広く一般的に見たら平穏、でも私の今までの人生の中では随分ヤンチャをしたし、なかなか波乱万丈な生活をしていたと思う。
転職もしたし、引越しもした、引越ししたのにまた引越ししようとしてるし、転職したのにまた転職しようとしている。全然腰を据えることが出来ない。この生活もあと○ヶ月かなあと思いながら過ごすことがデフォルトで、そう思いながら過ごす日々は少しだけ尊く感じる。それと同時に「自分の居場所はここじゃない」と思うことで救われてる自分も確実に存在していることに辟易とする。


過去や未来に思いを馳せて現状に目を向けようとしない。今この瞬間、目の前にあるものからしか得られないものが確かにあることもそのパワーも知ってるのに、私の意識はいつもここじゃないどこかへと向かっていってしまう。


でも、きっとそんな風だから私はこれまで(ここ数年よりさらに前)ネガティブではあったけど、それなりに健康で居られたのかなとも思う。「自分のことばかり考えてる人ほど病みやすい」なんてツイートが回ってきてそう思った。


あのときの私は相も変わらず(?)考えごとばかりしていたけど、その主たる対象は「人間」とその人間が作り出した「社会」であって、「私という人間」についてずーっと考えているわけではなかった。
人ってこうだよね、だから今の社会はこうなのかなあとか、人の心の動きにはこういうところあるよなあとか、もちろん「私という人間」もその分析データにしっかり組み込まれてはいるけど、導き出される結論は「人は」「社会は」云々でしかないからそこまで深く病むことはない。
その導き出された答えにウンザリすることはあったとはいえ。


それに、社会に対して文句を言うのはやっぱりくだらないなあと思う。もちろん、声を上げる人のことを否定するつもりもないし、何かを変えようと行動を起こしている人のことは素直に凄いなあと思う。
でも変えようとしてすらないくせに、ただツイッターで文句を垂れ流してるような人はどうも好きになれなかった。何でもかんでも社会のせいにするのは純粋にダサいなと思っていた。


何かを変える力もそのためのモチベもない私は、その中でどう生きるかを考えるのが大切だと思っていたし、それを考えるのを楽しんですらいた。
私は私のやり方でこの世界を見つめて、生き延びてやるぜなんて思っていた。


捉え方次第で変わる世界が面白くもあった。どこか遠くへ出かけたり、特別な経験をしなくたって、捉え方ひとつでいつも通りの日常がまるっと変わる。これは人生飽きない。
事実から目をそらさず、その上でご都合主義の解釈を加えることで生きていくのが私なりの戦い方だったし処世術。


それなのに最近の私は事実から目をそらすことでしか生き延びることが出来ない。考えないようにするっていう1番嫌いな手段でしか自分を保つことが出来ない。
突き詰めて考える、考えまくることが出来なくなっているのが苦しい。こんな自分は嫌いだし、何より楽しくない。
どうでも良いけど大切なことをああでもないこうでもない〜って考えながら日々を過ごす。どれだけ考えても答えらしい答えが見つからなかったのに日常の些細な出来事や景色に触れたときに、突然答えが落ちてきたりするのがたまらなく楽しかった。これが脳汁ってやつですか?(多分違う)


何だかんだ充実していたなあと思うし、この充実感は平穏だったからこそ得られた種類のものだなあとも思う。


今、ここ数年の中では割とまともな文章が書けていることに少し安心する。(時間をあけて読み返したら違うのかもしれないけど)
最近はほんの少しだけ、強くなれてる気がするけどこれも一過性かもしれない。まだ分からないけど、今は少しだけ頭がクリア。昔の自分がどうやって生き延びていたかすっかり忘れていたけど、書いてみたらこれが私だよなあってストンと自分の中に何かが収まったような気がした。


あの頃の自分と全く同じに戻りたいとは思わない、ちょっと尖りすぎてたところもあるし。
出来ればバージョン2.0でお送りしたい限り。


書き出しを読み返すと全く拾いきれてないけど、もう2,000字超えてるしもうそろそろ寝ないとやばいのでこの辺で。

久しぶりに皆さんの目に触れるかもしれないところに垂れ流します。
読んでくれた皆様、お暇ですねえ。(アリガト)



ただ私の


前途を祝して


元五時寝常習犯より

おぼれる

人がほんとうに欲しているのは、

いや、生きる上で最も必要なのは

畢竟、人の温もりなのかもしれない


そこで安心して

両目を閉じられるかなのかもしれない


大切なのは体温では無いということも


忘れられないといいつつ

真っ先に忘れていくのは

体温だということも


それでもまだ

単純なる心地良さに

とらわれるのは

アイロンのある風景

肉体が死に絶えること
それはただの終わりで、終着点で、
それ以上でもそれ以下でもない。
そういうものに必要以上に囚われていた時期もあった。
死んだ後、私の思考はどうなるのだろう、と。
終わりというのはどんなものなのだろうか、と。
「生きる意味とかどうでもいい」なんて言いながら死の意味ばかり考えていたあの頃の私は、死を考えることで逆説的に生について考えていたような気もする。


友達に「やたら死について考えてた時期あったよね」なんて言われて、確かにそんな時期もあったなあと懐かしく思った。
というか、言われるまで思い出せないくらい、今の自分はそこに囚われてない。もちろん今も考えないわけではないけど、あの頃みたいに病的にそれを追求しようとしたりはしない。


生は死を内包するからこそ生であって、死を内包しない生は生ではない。死なないのであれば、生きるという行為(?)すら存在しない。生と死があること、それは選択肢があるということで、(自我が芽生えていない時期、自己判断が出来なくなった時期を除けば)今生きている人は理由はなんであれ自ら生を選択している(あるいは死を選択していない)ということになる。


そしていつでも、死を選択するのは可能である。
ここに選択肢がある、そして自分は選択して日々を過ごしているという事実による安心感。
もしくは、いつでも終わらせられるスイッチを常に携えているという安心感。
今、生と死が与えてくれる恩恵は、そういう類のものでる。


4年越しに読んだ村上春樹「アイロンのある風景」は、焚き火のように暖かかったし、夜の海のように静かで寛大だった。


きっと彼女達は死なない。
死なないことを、生きることを望んでいる。
というよりは、求めている。
死を語りながら、死に向かいながら
生を求めている。
「だって、もしそうじゃないとしたら、どうしてこの話の最後はこんなにも静かで美しいのだろう?」


父親に受け入れてもらえなかった順子、「アイロン」を身代わりにすることでしか家族を描けない三宅さん。


ぐっすり寝て起きたら、また生きていくのだろう。
「焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」のだ。
暖かさが消えた後の、
冷蔵庫のような寒い現実を。

でもずっと冷蔵庫の中に居たら凍えて死んでしまう。
だから、時には焚き火にあたって(擬似的な家族の暖かさに触れて)、微睡みの中に束の間の死を貪る。

「私はこの人と一緒に生きることはできないだろうと順子は思った。私がこの人の心の中に入っていくことはできそうにないから。でも一緒に死ぬことならできるかもしれない」


そんな相手と。


そうやって生きていく。
暖かさの中では生きていけない人だっているのだ。
(焚き火はいつか消えるから、目が覚める)
暖かさに触れたら死んでしまう、でも暖かさがなければ生きていけない。
そういう矛盾の中に生きている。



死も生も肯定しない。否定しない。
ただそういうものとして描かれる。
死にたいとか、生きたいとか、
そんな極端さから離れたところにある、
生死による暖かさ。

この作品を読むと私も束の間の眠りにつくことが出来る気がする。


「死に方から逆に導かれる生き方もある」のだ。


志賀直哉「城の崎にて」、島木健作「赤蛙」
生と死なんて紙一重だと描いていた作品に沢山触れていた4年前。
生と死は対極じゃないんだと、ほんの僅かな違いしかないのだと、そういうことを描いた作品に触れて当時は分かるような分からないような気持ちだった。
でもその考え方に、何故か強く惹かれたのも確かだった。


4年後、今の私は、彼らの意見に首がもげるほど同意、、、できるわけではない。


このふたつは凄く曖昧で、
どちらかが欠ければどちらかが成り立たない。
それはつまり対極ということなのかもしれない。
でも、、、、。
やっぱりすごく曖昧なのだ。
強く線を引くような、真逆の位置にいるような「対極」ではないのだ。


今はそう思う。
生と死は迫ってくるようなものだと思っていた。
訪れるものだと、もしくは向かっていくものだと。
でもそれらは今、私が生きている限りずっと寄り添ってくれる暖かなものだと、今は思う。




どんどん寒くなっていく季節に、
凍えないように。

ゆく川の流れは

もう二度と戻ることの無い日々に思いを馳せながら生きるのは結構苦しかったりする。過去は一度過去になったら未来永劫過去のままだし、それはもう取り戻すことが出来ない。無理に再現しようとしたってそれは所詮模倣でしかなく、本物とは決定的な部分が異なる。一度変わった人間は大抵元には戻らないし、切れてしまった縁は完全に元の通りには修復できない。


それでもふとしたときに過去を思い返せば、あのとき感じていた若い気持ちごと自分に舞い戻ってくる。あの思春期真っ盛りの、多感で敏感でそのくせ鈍感な心が丸ごと自分に返ってきたようで、それは一種の麻薬的感覚を自分にもたらす。


時間は不可逆だ。そんなことは幼い頃から分かっていた。私だけじゃなく、みんな当たり前に常識としてわかっていた。でも、その残酷さというか非情さというか、時の流れの虚しさみたいなものは全然理解していなかった。


過去は戻らない。それに時の流れは止められない。その流れのなかで自分だけ止まり続けるわけにもいかない。時の流れに乗ることがすなわち「変わらないこと」だから。
時という水流のAという地点に生まれ落ちたなら、その水の上に乗ったまま一緒に流れていくこと。ずっと水流のA地点に居続けることが「変わらない」ということ。仮に水流に乗らず水流地に留まり続けたとしたら、自分が経つ位置は水流A地点からB、Cとどんどん住所を変えなくてはいけない。立つ場所の座標は変わっていない、でもそこを流れる水流が違う。周りが変わる中で自分だけが変わらない。相対的に見ればそれは「変わること」なのだと思う。


「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」


ことあるごとに方丈記の冒頭が頭に浮かぶ。
あの大学は今も変わらない。18歳から22歳くらいまでの生徒がいて、一人暮らしの人は少なくて、男子2.3割に女子7.8割の割合は現在も意図せずして保たれている。大学構内を生徒たちが水流の如く流れていく。絶え間ないけど、もとの水じゃない。そうであるべきで、それが大学にとっての変わらないことだと思う。流れなければ大学はそのうち老人ホームに様変わりしてしまうし。


変わるのは怖い。でも自分だけが頑固にその場所に仁王立ちしていたって周りが変わってしまう。
「変わらないとは変わり続けることによって成される」
そんな当たり前で、矛盾した理が苦しい。それでも無常だからこそ人の命は輝くし、その生き様は美しく見えたりもする。


諸行無常。どんなに栄華を極めたって何れは滅びる。加齢で能力が落ちる前に引退するアスリート、美しさが損なわれる前に引退するアイドル。美しいままで終わらせること、その美徳。せめて、そこに「19XX年~20XX年」なんて書いた完璧な偶像を確立させるためには変わってしまう前に変わらなければいけない。


ここまで変わるだの変わらないだの喋ったけれど、何が「変わる」で何が「変わらない」なのかなんて視点によって変わる。その世にあるもの(というと主語が大きすぎるけれど)は全て流動的で掴みどころがない、まるで水流のようだと思う。


でも私はその水流を美しく思う。線香花火の火花を綺麗だと思うし、桜を見ると心が動かされる。何百年前からある寺だとか、何千年前の書物だとか、そういうものの素晴らしさも分かるけれど、私はやはり前者に魅力を感じる。
そんな美しい世の中で生きる代償がこの平凡で俗っぽい辛さなのかもしれない。


これから先も一生「あの時はよかった」「あの頃は楽しかった」と言い続け、今の素晴らしさに気が付かない人生を送ると思う。都合の悪い記憶は排除した御都合主義の偶像を並べながら、自分の人生なんだかんだ楽しかったわって調子に乗ったこと言えたらそれはもう大往生出来そうな気がする。
自分の性格上、変わり果てた現状と比べて嘆くばかりになりそうだけど。


過去は戻らない。再現しようとするのは虚しい。
それでも時々行動を起こさずにはいられない、どうしようもない自分へ。



亡き王女の

「肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもう元には戻れないのよ。私バラバラになって──どこかに吹きとばされてしまうのよ………(後略)」
ノルウェイの森(上)』


だから肩の力なんて抜けない。彼女ほど私は厳格じゃないけれど、自分の軸くらいは持っているつもりで。それが折れてしまうくらいなら、とはもちろん思うのだけれど、

でも私は、もしも何かの拍子に肩の力が抜けてしまって自分がバラバラになってしまったとしたら、その破片を──吹き飛ばされていった破片のことは無視して──残った破片だけをかき集めて「これが私だ」って言えてしまう気がする。どんなに粉々のバラバラになったとしても、今度は「この破片を含む風が私だ」とか「バラバラになって吹き飛ばされてしまって、今は跡形もなくなったという事象が私だ」とか誰よりもしぶとく、しつこく「自分」を維持しよと足掻くような。


バラバラになっただけで死んでしまう彼女は「自分」の所在が誰よりも明確で、それは本当に正しいことなのだけれど、どうしようもないくらいに脆い。
ただえさえ脆いのに、殴られて蹴られてヒビだらけの状態でも形を保って、いつでも公正で正しい自分で在りたいと………。

生きることよりも公正であることの方が何億倍も大切で………。






「やれやれ。」

怖い話


シフト制は、波が激しい。




つまり、めちゃくちゃ楽な週とめちゃくちゃ忙しい週があって、



かなりよく言えばメリハリのある生活を送れる。




規則正しい生活が苦手だし嫌いな私にとっては、




それは何だかんだ嫌いじゃなかったりするんだけど、




月の後半が忙しいシフトの場合、




毎度祈るような気持ちで来月のシフトを待たなくてはいけない。




毎月合格発表を見に来た受験生の気持ちを味わえてとても良いです。良くないです。





前半キツめなシフトが来たら心は大荒れです。




今月は特に前半が楽シフトで、




それはもう本当に、
え、こんなに働かなくていいの?





ってくらいで、




まるで大学生の頃に戻ったような気分で日々を過ごしています。(数日後には地獄の通し連勤が始まるんだけど)




特にやることもないから、YouTubeを見て、実家に帰って犬と遊んで、ゲームして、ひたすらにダラダラぐうたら、ああ1年前は毎日こんなんだったなあって思いつつ、




今現在何者にもなれていない自分と、
今ならまだ間に合うかもっていうきもちと、
いやもう今のままでもいいやって気持ち、




でもこのまま普通に結婚して子供産んで、
ごくありふれた大人になる自分を想像してゾッとしてみたり、




意外にも心が青い自分を嘲笑ってみたり、




でも最終的にはとんでもない焦燥感に駆られて、




かと言って何も行動を起こせなくて、
とりあえず、iPhoneのメモ帳に文章をダラダラと書き連ねていたら、




画面の端に布が写った。





黒色の布。服?ていうか、袴?




え?




見上げてみると見覚えしかない顔がそこにあった。





芥川龍之介じゃん?




いや、正真正銘の芥川じゃん??




何故か白黒だけど。




え、本物も白黒なの?
いや、ていうかこれ本物なの??




部屋は大荒れだし、髪はボサボサだし、部屋着のまま、というか、下半身は布団の中に隠れているとはいえ下着だし、こんな状態を誰かに見られること自体大事件なんだけど、それ以上の大大事件。




困惑して固まっていると、




「何者かになれる人間なんていないよ。」



って声がした。




え、まさかお前が喋ったの???



黙ってると、




「ねえ、聞いてるのぉ?」




明らかに芥川らしきものから声がするし、よく見ると一応口が動いている。




いやいや、芥川はそんな喋り方しないだろ。いやでもわいは芥川が喋ってるの聞いたことないし、もしかしたらこんな感じだったんか??いや、でもそんなエピソード聞いたことないし、もしかして昔の人ってみんなこういう喋りだったんか??





憧れの人を前にして声が出せないとかではなく、情報量が多すぎて完全に私の頭は処理落ちしてしまった。





「まあ、いいけどぉ。わいも生きてるときは結構病んでたけど、ああいうのもう古いじゃん?」



勝手に喋り出すし。




「大体ネトフリがある世界に生きてて何で病むん?あれがあればわいも自殺しなかったしぃ」




ネトフリ。




意味わかんなすぎるけど、一応憧れの人に会えたわけだし(?)いい加減何か言葉を発しないとと思った私はなんとか、




「あの、ネトフリを、ご存知なんですか……?」




「あったりまえじゃ〜ん!」




今は大正生まれの人でもネトフリ見る時代らしい。


令和ってもしかしたらすごい時代なのかもしれない。




こんなハチャメチャな時代にならもしかしたら私でも、少しは足跡をつけれるかも、って思った。