幻燈

書きたいときに書きます。

ヨノナカカネ。

午前3時、秋。



いかがお過ごしでしょうか。




夜風が気持ち良すぎるこの季節。イヤホンとLINEミュージックがあればどこまででも歩いていけそうだなと思いながらも、



やっぱり仕事終わりに寄り道する気力もなく、



というか、個人的には家に帰るまでがお仕事なので



仕事終わりにそのままテクテク歩いていって帰りが遅くなろうもんなら、



多分ちょっと萎えてしまう。






やっぱり遊びに出かけた帰り道に、



もっと言うなら飲みの帰りに、



二駅くらい手前の駅で降りて、




夜風を浴びて酔いを冷ましながら、
音楽流してのんびり帰る。


本当にこれが最高なんだけど、




今はどの飲食店も休業だし、




私も二連休以上の休みがほとんどないし、




先の予定もなかなか決められないような仕事だから、
もうずっとあの幸福を味わってない。




まあ今の、というか最近の自分の精神状態を考えると、


ちょっと危険な気もするので、
寧ろ良かったのかもしれない。




やっぱり散歩してると本当に色んなことを考えちゃうし。





仕事を始めてからは、
無意識かつ意識的に脳を殺して生活してて、




そのおかげで何とか今も働けてるけど、




散歩なんかしてしまったら、
そういうリミッターが全部外れて、

 


多分翌朝には仕事辞めるか飛び降りるかしてる(2階からだけど)





昔からあれやこれやと考えるのは趣味みたいなものだったけど、




大学で文学に出会ってからはそれがさらに急加速して、




半年前までは、考えない自分は自分じゃないし、そんな自分嫌だ!っていわばアイデンティティの1つみたいになってた。




(いや、今も心ではそうなんだけど)




大学時代、「社会人になったら考える余裕(精神的にも体力的にも時間的にも)がなくなっちゃうんだろうな。でも絶対そうはなりたくない、抗っていきたい」ってめちゃくちゃ思ってたのに、




気づいたら想像してた通りの脳死社会人になってて目も当てられない。






だって考えるとしんどくなるし、




わけ分からなくなって泣きたくなるし、




絶対に仕事辞めたくなるし、




ていうか、社会から逃げ出したくなるし。




その辛さを耐え抜いてまで考え続けるなんて私には出来ないみたいだった。




弱っちい。




でも、やっぱり自分を取り戻したい気持ちもあって日々葛藤。




私の居場所はここじゃないと思いながらも、
実際にいるのはその場所以外の何処でもなくて、


辛くなって、また考えるのをやめる。




読書も脳に働きかけてくるから封印して、




脳を殺すのには持ってこいのYouTubeで世界一意味の無い時間を過ごしてる。




怠惰。





同じ場所で学んだ人たちも気づいたら違う人生を歩んでて、



みんなバラバラの方向を向いていて、




それは小中高の同級生に関しても同じなんだけど、




やっぱり大学の友達は本当にソウルメイト(以外に言葉が出てこなかった…)みたいに勝手に思ってるから、




なんかちょっと寂しい。




今も結構頻繁に話したりはしてて、この関係はもしかしたらずっと変わらないのかもしれないけど(そうであれ)




それでもきっと少しずつ、
どんどん別の人生歩んでいって
気づいたら見えなくなっていた






なんてことになってしまうような予感もしてる。




女の人生って、結婚出産のせいでそうなりやすいらしいし。





何がなんだかわからない夜。



人に会いたいような、会いたくないような。




でも誰かと話したいような、話したくないような。






こんな夜でも、



やっぱり踊ってる。




だって、踊ってない夜なんて知らないし。





落ちていた雑記帳の一片に

落ちていた雑記帳の一片に


どうしても自分の思いを思いのままに綴るのは恥ずかしくて書けないでいた。

中学生の頃から毎日毎日飽きもせずに140字以内に収まるくらいの断片的な思いは吐き出しているけど、改めて文章に纏めるというのはやっぱり恥ずかしくて、躊躇われしまう。


それに、本当はもっと柔らかくてキャッチーな文章を書くべきなのだと思う。でも、どうしてもそれが出来ない。どうしてもそういう文章が苦手だ。


大学生の頃、インターン先で求人募集の記事のライティングをしたことがある。文章を書くのは得意な方だったから、割と自信満々に立ち向かってはみたのだけれど、そこで求められた文章はもっと「やわらかい」文章だった。


「人が好き!建築が好き!そんなアナタ、ぴったりです!」


確かこんなような文章を嫌々書いた気がする。書けなくはない………のかもしれない。でも人並みかそれ以下ではあると思った。そのとき、文章にも種類があることを知った。私は文章を書くのが得意なのではなく、「こういう」文章を書くのが少し得意なだけなのだと。


そもそも私には、他人に美しいと思ってもらえる文章とか、他人の心をつかむ文章が書きたいなんて欲はない。ただ自分が美しいと思える文章を思いのままに書き連ねて、暇があればそれをああでもないこうでもないと推敲する。それが楽しくて仕方がない。文章作成は私にとってはデザインみたいなものなのだと思う。


もちろん、自分にとっての最高の文章が他人にとっての最高でもあれば良いなとは思う。自分が思うままにに書き連ねた言葉が誰かの心を動かせたらなとは思う。でも、そのために自分の文章を歪めたくはない。


そんな私に「御社」の言う人の心に刺さる文章が書けるわけないし、そもそも書きたくもなかった。「人が好き!建築が好き!」なんてダサいし、情報伝達能力もない文章の価値が私には分からなかった。このとき、コピーライターになるのは有り得ないなと思ったりした。


まあ、多くの人の心を揺さぶってしまうような天才的なキャッチコピーより、「真夜中の疾走に聡明と音楽」みたいな厨二病全開の文章でアドレナリンを垂れ流す私の書く文章が大衆に刺さるわけもない。そんな求人見たくないし。


自己中な自慰的文章しか書けないから、読みやすさで言ったら星1を付けられてもおかしくないレベル。でも、書きたい。人に読まれる想定してないくせに、人に読まれたい。我儘。


そんな欲を満たすためだけに筆を取った25時半。猫も微睡む25時半。筆と言いつつとったのはペン………でもなく、スマホだったりする。深夜のワンルームマンションの一室と言い変えようとしたところで、自分の住んでいる部屋は中途半端な1Kであることに気づく。くやしい。


初めて思うままに書いてみて気づいたのだけれど、書いてみてしまえば自分の想いを直接綴ることは意外に恥ずかしくない。まあ、恥ずかしくないなと思ってしまうこと自体が本当は恥ずかしいことなのかもしれないけれど。


気づいたら140字の毎日日記をただくっつけただけみたいな文章が出来上がっている。不思議。当たり前だけど首尾貫徹とはほど遠い文章。
でも、この方が備忘録感あっていいんじゃないと言いきかせて。



夏の終わりに。



成人済みの更級の少女から。

半生

半生

絵画
人生を1枚の絵画に例えるとすれば、知識や常識といった基本的な事柄は線画の部分に当たるだろう。そこに色彩を付けるのは娯楽のように、生物が生物として生存する上では無くても問題のないものたちである。線画がなければ何を描いているのかは分からない。しかし、線画だけではつまらない。強烈な個性があれば、色彩だけでも美しい絵を描けるのかもしれないが。(私には到底そんなものは無い。)私は線画ばかり描き続けていた。



自分に色彩がないことに気がついたのは大学に入ってからだった。高校までとは違い大学では個性を重んじられた。だから、私も意識的に無駄を愛した。その結果、少しは私の絵にも色彩が宿った。しかし、それはどこまで行ってもチープな色だった。

或る阿呆
彼は自分のことを阿呆だと言った。確かに彼は自分自身のことを知らなかったかもしれない。だが、彼はボードレールを知っていた。ヴォルテールを知っていた。ニーチェを知っていた。私は何も知らない。


彼は己が阿呆であると言った。しかし、彼は自分が阿呆でない故に幸福でないのを知っていた。


しかし、彼はそういう自分を阿呆だと思っていたのかもしれない。私は阿呆になりきることすら出来ない。

矜恃
矜恃などというものは何のためにあるのか。自分を律するためにあるのか。実際、中学生の頃の私を追い立てていたのはプレッシャーのみだった。志望理由に書けるような気持ちは少しもなかった。


大部分の矜恃を喪失した私は生きやすくなった。それと同時に何も達成することが出来なくなった。

音楽鑑賞
「明日はきっと良いことがある」「前を向いて強く進め」などと言う詩を聞きながら生きている者は、辛くてどうしようも無い現実から目を逸らしている馬鹿ではないのか。しかし、辛くて仕方の無い気持ちを歌う詩を聞きながら悦に浸っている者は、自分を変えようともせず現状の中に美を見出す大馬鹿者だ。同じ馬鹿なら、私は前者でありたかった。

論争
今日も論争と呼ばれるものは四方八方に転がっている。その上、それらが大勢の目に留まりやすい時代になった。政治家の汚職事件のニュースに、給食への異物混入のニュースに、大物俳優の不倫報道に、人々は思い思いのコメントをする。それに対して、反発する人々も大勢いる。私はそれを眺め、静かに肩をなでおろしている。

文章
書くことだけが唯一の自己表現の手段なのかもしれない。口をついて出る言葉は、その時々の感情によって常に歪曲させられる。また、書くことに比べれば熟考の余地もなく表に出される。私が文章を書くのは、常に苦しくて堪らないときだ。


私は、文章を通してでしか世の中を見ることは出来ない。私を構成するのは常に誰かの文章や言葉だ。それは本当に私の考えなのだろうか。


私は、人よりも言葉を知っているかもしれない。しかし、それらの言葉が生まれた理由を人よりも知らない。

文学
文学は弱い私を肯定してくれた。


人は私のことを何と言うだろうか。性格が悪いと言うだろうか。しかし、死に物狂いで自己の内面に向き合えば人は誰しもこういった醜い感情を持ち合わせていることに気付く。貴方も?


大勢は自分のことは自分が一番よく分かっていると思っている。しかし、自分のことほど分からないことは無い。そのときに抱いた感情すら、その理由は改めて考えなければ見えてこない。その上、それが正しいのかどうかの判別は誰にも出来ない。それなのに、私もやはり自分のことは自分が一番よく分かっていると思ってしまう。


それでも私はやはり、理解されたいと強く願っている。


そして、出来ることなら誰にも嫌われたくないと思っている。

模倣
そしてこれもやはり彼の真似事なのだ。