肉体が死に絶えること
それはただの終わりで、終着点で、
それ以上でもそれ以下でもない。
そういうものに必要以上に囚われていた時期もあった。
死んだ後、私の思考はどうなるのだろう、と。
終わりというのはどんなものなのだろうか、と。
「生きる意味とかどうでもいい」なんて言いながら死の意味ばかり考えていたあの頃の私は、死を考えることで逆説的に生について考えていたような気もする。
友達に「やたら死について考えてた時期あったよね」なんて言われて、確かにそんな時期もあったなあと懐かしく思った。
というか、言われるまで思い出せないくらい、今の自分はそこに囚われてない。もちろん今も考えないわけではないけど、あの頃みたいに病的にそれを追求しようとしたりはしない。
生は死を内包するからこそ生であって、死を内包しない生は生ではない。死なないのであれば、生きるという行為(?)すら存在しない。生と死があること、それは選択肢があるということで、(自我が芽生えていない時期、自己判断が出来なくなった時期を除けば)今生きている人は理由はなんであれ自ら生を選択している(あるいは死を選択していない)ということになる。
そしていつでも、死を選択するのは可能である。
ここに選択肢がある、そして自分は選択して日々を過ごしているという事実による安心感。
もしくは、いつでも終わらせられるスイッチを常に携えているという安心感。
今、生と死が与えてくれる恩恵は、そういう類のものでる。
4年越しに読んだ村上春樹「アイロンのある風景」は、焚き火のように暖かかったし、夜の海のように静かで寛大だった。
きっと彼女達は死なない。
死なないことを、生きることを望んでいる。
というよりは、求めている。
死を語りながら、死に向かいながら
生を求めている。
「だって、もしそうじゃないとしたら、どうしてこの話の最後はこんなにも静かで美しいのだろう?」
父親に受け入れてもらえなかった順子、「アイロン」を身代わりにすることでしか家族を描けない三宅さん。
ぐっすり寝て起きたら、また生きていくのだろう。
「焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」のだ。
暖かさが消えた後の、
冷蔵庫のような寒い現実を。
でもずっと冷蔵庫の中に居たら凍えて死んでしまう。
だから、時には焚き火にあたって(擬似的な家族の暖かさに触れて)、微睡みの中に束の間の死を貪る。
「私はこの人と一緒に生きることはできないだろうと順子は思った。私がこの人の心の中に入っていくことはできそうにないから。でも一緒に死ぬことならできるかもしれない」
そんな相手と。
そうやって生きていく。
暖かさの中では生きていけない人だっているのだ。
(焚き火はいつか消えるから、目が覚める)
暖かさに触れたら死んでしまう、でも暖かさがなければ生きていけない。
そういう矛盾の中に生きている。
死も生も肯定しない。否定しない。
ただそういうものとして描かれる。
死にたいとか、生きたいとか、
そんな極端さから離れたところにある、
生死による暖かさ。
この作品を読むと私も束の間の眠りにつくことが出来る気がする。
「死に方から逆に導かれる生き方もある」のだ。
志賀直哉「城の崎にて」、島木健作「赤蛙」
生と死なんて紙一重だと描いていた作品に沢山触れていた4年前。
生と死は対極じゃないんだと、ほんの僅かな違いしかないのだと、そういうことを描いた作品に触れて当時は分かるような分からないような気持ちだった。
でもその考え方に、何故か強く惹かれたのも確かだった。
4年後、今の私は、彼らの意見に首がもげるほど同意、、、できるわけではない。
このふたつは凄く曖昧で、
どちらかが欠ければどちらかが成り立たない。
それはつまり対極ということなのかもしれない。
でも、、、、。
やっぱりすごく曖昧なのだ。
強く線を引くような、真逆の位置にいるような「対極」ではないのだ。
今はそう思う。
生と死は迫ってくるようなものだと思っていた。
訪れるものだと、もしくは向かっていくものだと。
でもそれらは今、私が生きている限りずっと寄り添ってくれる暖かなものだと、今は思う。
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どんどん寒くなっていく季節に、
凍えないように。