幻燈

書きたいときに書きます。

ゆく川の流れは

もう二度と戻ることの無い日々に思いを馳せながら生きるのは結構苦しかったりする。過去は一度過去になったら未来永劫過去のままだし、それはもう取り戻すことが出来ない。無理に再現しようとしたってそれは所詮模倣でしかなく、本物とは決定的な部分が異なる。一度変わった人間は大抵元には戻らないし、切れてしまった縁は完全に元の通りには修復できない。


それでもふとしたときに過去を思い返せば、あのとき感じていた若い気持ちごと自分に舞い戻ってくる。あの思春期真っ盛りの、多感で敏感でそのくせ鈍感な心が丸ごと自分に返ってきたようで、それは一種の麻薬的感覚を自分にもたらす。


時間は不可逆だ。そんなことは幼い頃から分かっていた。私だけじゃなく、みんな当たり前に常識としてわかっていた。でも、その残酷さというか非情さというか、時の流れの虚しさみたいなものは全然理解していなかった。


過去は戻らない。それに時の流れは止められない。その流れのなかで自分だけ止まり続けるわけにもいかない。時の流れに乗ることがすなわち「変わらないこと」だから。
時という水流のAという地点に生まれ落ちたなら、その水の上に乗ったまま一緒に流れていくこと。ずっと水流のA地点に居続けることが「変わらない」ということ。仮に水流に乗らず水流地に留まり続けたとしたら、自分が経つ位置は水流A地点からB、Cとどんどん住所を変えなくてはいけない。立つ場所の座標は変わっていない、でもそこを流れる水流が違う。周りが変わる中で自分だけが変わらない。相対的に見ればそれは「変わること」なのだと思う。


「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」


ことあるごとに方丈記の冒頭が頭に浮かぶ。
あの大学は今も変わらない。18歳から22歳くらいまでの生徒がいて、一人暮らしの人は少なくて、男子2.3割に女子7.8割の割合は現在も意図せずして保たれている。大学構内を生徒たちが水流の如く流れていく。絶え間ないけど、もとの水じゃない。そうであるべきで、それが大学にとっての変わらないことだと思う。流れなければ大学はそのうち老人ホームに様変わりしてしまうし。


変わるのは怖い。でも自分だけが頑固にその場所に仁王立ちしていたって周りが変わってしまう。
「変わらないとは変わり続けることによって成される」
そんな当たり前で、矛盾した理が苦しい。それでも無常だからこそ人の命は輝くし、その生き様は美しく見えたりもする。


諸行無常。どんなに栄華を極めたって何れは滅びる。加齢で能力が落ちる前に引退するアスリート、美しさが損なわれる前に引退するアイドル。美しいままで終わらせること、その美徳。せめて、そこに「19XX年~20XX年」なんて書いた完璧な偶像を確立させるためには変わってしまう前に変わらなければいけない。


ここまで変わるだの変わらないだの喋ったけれど、何が「変わる」で何が「変わらない」なのかなんて視点によって変わる。その世にあるもの(というと主語が大きすぎるけれど)は全て流動的で掴みどころがない、まるで水流のようだと思う。


でも私はその水流を美しく思う。線香花火の火花を綺麗だと思うし、桜を見ると心が動かされる。何百年前からある寺だとか、何千年前の書物だとか、そういうものの素晴らしさも分かるけれど、私はやはり前者に魅力を感じる。
そんな美しい世の中で生きる代償がこの平凡で俗っぽい辛さなのかもしれない。


これから先も一生「あの時はよかった」「あの頃は楽しかった」と言い続け、今の素晴らしさに気が付かない人生を送ると思う。都合の悪い記憶は排除した御都合主義の偶像を並べながら、自分の人生なんだかんだ楽しかったわって調子に乗ったこと言えたらそれはもう大往生出来そうな気がする。
自分の性格上、変わり果てた現状と比べて嘆くばかりになりそうだけど。


過去は戻らない。再現しようとするのは虚しい。
それでも時々行動を起こさずにはいられない、どうしようもない自分へ。